約 57,955 件
https://w.atwiki.jp/nicosangokushi/pages/56.html
リスト nicovideo_mylist エラー ( 正しいマイリストURLを入力してください. ) 登録武将 製作者⇒愚民教育修了者 アイマス、D.C.、まほらば、史実武将・政治家 簡単な解説 登録武将のステの高さやテンポの悪さから序盤はコメのほとんどが批判であるが、 5話の曹操の猛攻の酷さからステ批判は無くなる。 12話は存在せず、コメ欄の滅亡報告のみで、 詳細は「近くて遠い世界の三国志」のプロローグの冒頭にて語られている 続編 近くて遠い世界の三国志 名前 コメント
https://w.atwiki.jp/mahjong_comic/pages/718.html
雀鬼三国志 原作 寺内大吉? 作画 みやぞえ郁也 掲載誌 月刊プレイコミック?75年5月号(創刊号)~掲載 話数 全?話 あらすじ 棋士くずれの雀士・名和信夫が全国を放浪して歩く長編劇画。(TOPコミックス新刊紹介ページより) 単行本 レーベル名 出版社 判型 巻数 奥付 TOPコミックス 秋田書店 B6 未完1巻 1975年12月30日初版 70年代 TOPコミックス みやぞえ郁也 寺内大吉 月刊プレイコミック
https://w.atwiki.jp/yamamura2/pages/5701.html
【TOP】【←prev】【SUPER Famicom】【next→】 三国志正史 天舞 スピリッツ タイトル 三国志正史 天舞 スピリッツ 機種 スーパーファミコン 型番 SHVC-W2 ジャンル シミュレーション 発売元 ウルフチーム 発売日 1993-6-25 価格 12800円(税別) 【TOP】【←prev】【MEGA CD】【next→】 天舞 メガCDスペシャル タイトル 天舞 メガCDスペシャル 機種 メガCD 型番 T-32084 ジャンル シミュレーション 発売元 ウルフチーム 発売日 1992-12-25 価格 9800円(税別) 天舞 関連 MCD 天舞 メガCDスペシャル SFC 三国志正史 天舞 スピリッツ 駿河屋で購入 スーパーファミコン メガCD
https://w.atwiki.jp/nicosangokushi/pages/63.html
[部分編集] 乙女三国志 http //www.nicovideo.jp/watch/sm973288 使用ゲーム 三國志Ⅸ シナリオ・担当勢力 - シナリオ設定 - 難易度 - 縛り - 登録武将 舞-乙HiME舞-HiMEハヤテのごとく!ケロロ軍曹フルメタル・パニック!さよなら絶望先生(主人公のみ)ひぐらしのなく頃に涼宮ハルヒの憂鬱かってに改蔵 史実武将の扱い - 紙芝居・ストーリー - 投稿時期 2007年09月15日~ 投稿者名 holmes 関連タグ - ニコニコ大百科 - マイリスト 乙女三国志 関連サイト - 備考 解説 漫画版舞-乙HiMEのマシロが君主のⅨプレイ動画 始まった当初はアニメキャラ舞闘史と言う名で始めたが、後に現在のオトメ三国志に改題した。 始めの方は各作品のキャラに動画内解説をさせていたが、後にうp主の解説に変更した。 開始当初はうp主のプレイの下手さに批判もあるが、少しずつ上手くなっている模様 その10辺りから、登録武将登用時、出撃時、兵法発動時などにアニメのカットインが入るようになった。 ストーリー部分はシリアス多め。ハヤテのごとく!のナギとハヤテなどが各作品の事を知っているので仲介役になることが多い。 その16にてセーブデータが飛んだそうで、その17からはそれまでに仲間にした登録武将を引き継いでプレイ再開している 作品の作り込み具合と反比例して再生数、コメント数が少ないので「もっと評価されるべき」タグが付けられることが多い コメント欄 再生数、なんでだろう・・・カオスが足りないのか?でも、そんな生真面目な「オトメ三国志シリーズ」が私は好きだ。 -- 名無しさん (2008-04-11 22 09 38) 名前 コメント
https://w.atwiki.jp/ymeconomy/pages/105.html
『三国志』の故事に由来する愚かで進歩のない人を指す言葉 [cube] →ごかのあもう (呉下の阿蒙) 『三国志演義』では「江東の小覇王」と呼ばれました [cube] →そんさく 中国の三国時代に呉の孫権に仕えた軍師のひとり [諸葛瑾] →しょかつきん 『三国志演義』を題材とした漫画『龍狼伝』の作者です [山原義人] →やまはらよしと 蜀の軍師・諸葛亮はこう呼ばれていました [伏龍] →ふくりゅう 216年に魏王を名乗った中国・三国時代の武将 [曹操] →そうそう 中国・三国時代の蜀の丞相諸葛亮が書いた名文 [出師の表] →すいしのひょう 『諸葛孔明 時の地平線』など歴史漫画で知られる女流漫画家 [諏訪緑] →すわみどり 食料や武器などの軍需品の総称 [輜重] →しちょう 発石車という兵器を発明した『三国志演義』に登場する武将 [劉曄] →りゅうよう 中国の三国時代に蜀を破滅へと導いた宦官です [黄皓] →こうこう 『三国志演義』で、徐庶が劉備の配下だった頃に名乗っていた名前 [単福] →ぜんふく 孫権の命で、甘露寺で劉備を暗殺しようとしました [賈華] →かか 中国・三国時代の一国です [蜀] →しょく 「官渡の戦い」で曹操に敗れた後漢末期の武将 [袁紹] →えんしょう 『三国志』に登場する曹丕、曹植らの母親です [卞] →べん 蜀を攻略する際に活躍した中国・三国時代の魏の武将です [鍾会] →しょうかい 小説『三国志演義』では「小覇王」と書かれた武将 [孫策] →そんさく 中国・三国時代の末期に活躍した「竹林の七賢」の1人です [王戎] →おうじゅう 諸葛亮亡き後の蜀を支えた中国・三国時代の名将です [姜維] →きょうい 中国・三国時代の武将・関羽を商売繁盛の神として祭ったほこら [関帝廟] →かんていびょう 経験の浅い若者を冷やかすために使う言葉です [青二才] →あおにさい 古来から使われている中国の土地の面積の単位 [畝] →ほ 小説『三国志演義』に登場する長坂の戦いで趙雲に討たれた武将 [淳于導] →じゅんうどう 『三国志演義』に登場する南蛮の猛獣使い [木鹿大王] →ぼくろくだいおう 221年に劉備が皇帝に即位した蜀はどこ? →(画像タッチ) 三国時代の国魏はどこ? →(画像タッチ) 280年に西晋によって滅ぼされた国は? →(画像タッチ)
https://w.atwiki.jp/saint_elmo/pages/31.html
かんたんストーリー 後漢の衰退 黄巾の乱 董卓の暴政 弱肉強食 赤壁の戦い 三国分立 三国の没落 その後の歴史 ノンフィクションからフィクションへ 陳寿の歴史書『三国志』 習鑿歯の蜀漢正統論 裴松之の注記『裴松之注』 民間伝承と朱子学 施耐庵あるいは羅貫中の小説『三国志通俗演義』 かんたんストーリー 後漢の衰退 三国志の時代が始まる直前、中国は“漢”と言う国でした(それ以前にも別の“漢”と言う国があったので、区別のために“後漢”と呼ばれています)。 ぶっちゃけ、この“後漢”は長く平和が続いていたので腐りかけてました。腐った政治に絶望した農民どもは、ありがちなパターンとして宗教に救いを求めます。このとき人々が救いを求めた宗教は、張角と言う人が教祖の新興宗教“太平道”でした。 黄巾の乱 新興宗教“太平道”は、やがて教祖張角が「立てよ国民!」と全国各地に訴え、政府に対して反乱を起こします。このとき張角を支持する人々も反乱に加わり、彼らが印として黄色い頭巾を着けたことから、この反乱は“黄巾の乱”と呼ばれました。 政府は平和に溺れ権力争いに終始していたので、この反乱に慌てます。武力らしい武力がなかった政府は「助けてドラえも~ん」と地方の武将に泣きつき、地方の武将たちに「反乱軍を鎮圧したら大出世のチャーンス!」と言う自信を与えることになります。 こうして全国規模の戦乱が起こりますが、戦乱の最中、張角は病死してしまい、統率力を失った反乱軍は次第に鎮圧されていきました。 董卓の暴政 反乱は鎮圧されたものの、まだ世情が不安定な中で時の皇帝が死亡。幼い2人の後継者のどちらを次の皇帝にするか、と言う大人の事情で政府内は分裂します。当然、2人の後継者は命を狙われる立場となり、黄巾の乱で活躍し損ねた武将董卓と言うおっちゃんに保護されました。運がいいですね、董卓。 後継者2人を保護した董卓は「俺の命令は皇帝の命令だ」と言い出し、ライバルをぶっ殺しまくって好き勝手を始めます。逆らう奴もぶっ殺します。ついでに、後継者争いをなくすため、2人の後継者の片方を殺しちゃったりして。更に董卓は、当時最強の武将だった呂布を餌付けし、「黄巾の乱の時は役に立たなかった癖に」「新皇帝を殺した」と不満を持っていた武将たちをも黙らせました。 しかし董卓は最終的に、董卓の侍女(フィクションでは当世一の美女貂蝉)に惚れた呂布に殺されてしまいます。いつの世でも色恋沙汰の恨みは恐ろしいと言うことでしょう。まだ幼い皇帝献帝は逃げ出して、黄巾の乱で活躍した武将の一人曹操に保護されました。 弱肉強食 お飾りの最高権力者を保護した武将曹操。こうなると考えることは誰でも一緒です。お飾りを盾にした国家支配って奴。ただ曹操は、他の連中と違って賢かったのです。と言うのは、曹操は“皇帝の代理”ではなく、あくまで“皇帝の部下”として行動したのです。皇帝献帝も賢かったので「曹操には逆らわない方がいいぞ」と分かっていて、実質的に曹操が政府を動かしていたわけですね。 しかし曹操が皇帝を保護した頃、すでに“漢”と言う統一国家は名前だけで、各地の武将が武力で勢力を広げていると言う状況でした。そこで曹操は、都があり政府の目が行き届きやすかった中国北部を、まず武力で統一します。そこから、まるで寒冷前線のように南を目指して進軍したのでした。 赤壁の戦い この頃、曹操が目指した中国南部は大きく東西に分かれていました。南東部は董卓が好き勝手している間に孫一族が支配し、それなりに平和でした。一方の南西部は、都からも離れ小さなゴタゴタが続いている中、やはり黄巾の乱で活躍し、曹操の知り合いでもある劉備が頭角を現していました。 曹操は天下統一に向けて、まず情勢が不安定で征服しやすそうな南西部を攻めました。しかし「俺は“漢”の皇帝劉一族の血筋じゃ」とプライド高い劉備が邪魔して、思うように進軍できません。そこで曹操は南東部を攻めることにしますが、南東部を支配していた孫一族は劉備と協力して曹操軍を撃破します。これが世に言う“赤壁の戦い”です。 三国分立 その後も曹操は、自分に逆らう勢力と戦いつつ、政治家としても次々優れた政策を打ちたてながら、天下統一はできないままに亡くなります。その父の後を継いだ曹丕は「俺は部下は嫌だ、皇帝になるぞ!」と、まだ皇帝だった献帝から皇帝の座を奪って、“漢”を“魏”と言う国に替えてしまいました これに怒ったのが、“漢”の皇帝の子孫を自称する劉備さん。「“漢”の皇帝の後を継いでいいのは、皇帝の子孫である俺だけだ!」ってことで、こちらも「俺は劉備~“漢”の皇帝~♪」宣言をして、中国南西部に新しく“漢”の国を作っちゃいます。これが世に言う“蜀(蜀漢)”の国です。……えーと、国の名前は“漢”なのに、なんで“蜀”なんだって? これは後世になって「劉備は偽皇帝」と言うことになっちゃったので、この国の名前を“漢”と認めちゃいかんだろって話になり、この地方の伝統的な呼び名である“蜀”に呼び替えたわけです。 こうなると黙っていられないのが、中国南東部を支配していた孫一族の三代目孫権です。こちらも曹丕や劉備に対抗して「俺が皇帝だ、文句あっか!」と、自分の支配していた中国南東部を“呉”の国とします。 三国の没落 こうして出来上がった“魏”“呉”“蜀”のうち、一番強いのは“魏”で、一番弱いのは“蜀”でした。そのため、“魏”は何度も“蜀”へ攻め込み、“蜀”も“漢”の後継国として都のある北を目指したので、この二国は何度も戦います。 しかし“蜀”の国が出来上がった頃、国の礎を築いた超人どもはみんな爺になったり死んだりで、その中では若かった軍師諸葛亮が一人で頑張っていました。そんな諸葛亮も病気には勝てません。病気なのに五丈原と言う場所へ出陣し、死ぬ直前に部下に秘策を授け“魏”の軍師司馬懿を逃走させます。これが世に言う「死せる孔明、生ける仲達を走らす」と言う奴です。“孔明”は諸葛亮の通称、同じく“仲達”は司馬懿の通称です。 諸葛亮の死後も残された人々はよく頑張っていましたが、建国から40年余り、諸葛亮の死から約30年で“蜀”は“魏”に負けて滅びてしまいます。それでも30年、よく頑張りました。皇帝は初代劉備と二代目劉禅のみです。 一方の“魏”も、諸葛亮が死んで以降は緊張が緩んだようで、皇帝の曹一族と軍師の司馬一族が対立するようになり、皇帝一族は徐々に軍師一族の操り人形となっていきました。まるで先祖の曹操と皇帝献帝を見ているようですね。そして“蜀”を滅ぼしたたった2年後、曹一族はついに司馬一族に皇帝の座を明け渡すことになり、ここに“魏”も滅びます。まるで先祖の(ry 司馬一族の新しい国は“晋(西晋)”です。“魏”の国も、建国から滅亡まで40年ちょっとですが、曹操が国を支配していた時代も“魏”に含めるべきと言う意見があるみたいです。ちなみに皇帝は5人(曹操は含まず)。 この時期、放置プレイされていた“呉”は後継者争いで内紛が起こっていました。こちらは“魏”や“蜀”に比べれば平和だったので、国が腐り始めるのが早かったわけです。そんな中、国の建て直しを期待された新皇帝孫皓はとんでもないバカ殿で、逆に腐敗を順調に発酵させました。そんな“呉”を頑張って何とかしていた軍師が死ぬと、「今がチャーンス!」と“晋”に攻められてしまいます。国民はあまりのバカ殿っぷりに孫皓を見捨て、孫皓は“晋”に降伏するしかありませんでした。こうして“呉”も滅び、三国志の時代は終わりを告げます。“呉”は孫権が皇帝となってから60年弱続きましたが、孫権の前の二代も含めると、実質的にはもう少し長いと言う意見があるようです。ちなみに皇帝は4人(孫権以降)です。 その後の歴史 こうして中国は“晋”によって再び統一されますが、“魏”の時代に作られた政治システムを流用し初期から政治が安定していたことや、対立する国が全て滅亡したことなどから、早くも腐り始めました。やがてバカ殿が皇帝になったため、後継者争いが元で戦乱が起こり、建国から約50年で国が分裂してしまいます。再び中国全土が統一されるのは、250年以上後の“隋”の時代です。 ノンフィクションからフィクションへ 陳寿の歴史書『三国志』 ノンフィクションである歴史書『三国志』は、三国志の時代とほぼ同時代に、“晋(西晋)”の官僚陳寿によって個人的な記録として書かれました。このとき、陳寿は歴史書を“魏”“呉”“蜀”の3ヴァージョンで書き、これが後にまとめて「三国志」と呼ばれるようになったと言われています。 陳寿が書いた歴史書『三国志』では、“魏”が正統な皇帝の国で、“呉”“蜀”は偽皇帝の国と言うことになっています。それもそのはず、陳寿が勤めている“晋”は遡れば“魏”だったので、“魏”が偽皇帝の国だと“晋”も偽皇帝の国と言うことになるからです。 しかし陳寿さん、実は“晋”ができる前は“蜀”の官僚でした。なので、当時は偽皇帝の国と扱われていた“蜀”について、かなり贔屓した内容であるとされています。例えば“呉”の皇帝は孫権などと呼び捨てなのに対し、“蜀”の皇帝は劉備を「先主」、劉禅を「後主」と言った具合です。 習鑿歯の蜀漢正統論 陳寿が『三国志』を書いた頃の中国は“晋(西晋)”に統一されていましたが、後に“晋”が分裂して影響力が弱まると、“魏”を偽皇帝の国と批判できるようになったため、“魏”“呉”“蜀”のどこが正統な皇帝の国か、議論が盛んに行われるようになりました。 この頃習鑿歯という人が、強引ながらも様々な改革を行い実質的に“漢”を強奪した曹操を「悪」、“漢”の皇帝の子孫と言われ強引な策を取らず中国各地を流浪した劉備を「善」として“蜀”の正統性を主張しました。これが「蜀漢正統論」です。 この「行動の善悪」を基準とした「正統性」の考え方は、国が乱れ分裂していた背景もあって、大いに支持されました。多くのフィクションで「善」の劉備、「悪」の曹操として描かれているのは、この考え方が後に大きく広まることになったからなのです。 裴松之の注記『裴松之注』 陳寿が書いた『三国志』は、事実かどうか疑わしい話に関しては全て排除され、非常にシンプルなものでした。しかし個人的な記録とは言え、歴史書としては非常に良くまとまっていたため、書かれた当時から高い評価を得ていました。 陳寿の『三国志』から約150年後、当時の皇帝(と言ってもまだ分裂状態ですが)に命じられた歴史家裴松之が、このシンプルな歴史書に注釈を付けることになりました。このとき裴松之は、フィクションかノンフィクションかに関わらず、当時あった三国志に関する話を「全て」出典付きで紹介しました。これが歴史書『三国志』の注記である『裴松之注』です。 『裴松之注』は、当時の書物に存在する三国志関係の話を全て紹介したため、中には矛盾する内容のものも含まれています。しかも、裴松之自身の自説とともに、自説に反する話も紹介すると言う徹底振り。習鑿歯の「蜀漢正統論(に基づいて書かれた書物『漢晋春秋』)」も、当然ながら紹介されています。また、「こりゃどう考えてもフィクションだろう」と言うような話も紹介されているため、後のフィクション『三国志演義』の成立に大いに貢献したと言われています。 民間伝承と朱子学 これら習鑿歯の「蜀漢正統論」や裴松之の『裴松之注』を参考に、「三国志」時代の話には段々尾ひれが付き、面白おかしい講談として民間に広がっていきました。中には、明らかに「元ネタ」が分かるものまであるそうで。 また陳寿の『三国志』は、「三国志」の時代から約400年後、“唐”の時代に「国が認めた正統な歴史書」となりました。このことから陳寿の『三国志』や裴松之の『裴松之注』は、知識人にとって必須のものになったのです。 更に、「三国志」の時代から約900年後、朱子学の創始者である“宋(南宋)”の学者朱熹と言う人が「蜀漢正統論」を支持しました。この朱子学が後に“明”の国家教学となったため、「蜀漢正統論」も国の知識層・支配層に浸透することになり、引いては全国に「蜀漢正統論」が広まることとなります。 と言うのも、当時の中国には「科挙」と言う官僚試験があり、これに受かれば貧乏人でも国家官僚に出世できたからです。その競争率は約3000倍(!)とか。科挙の試験科目には当然「歴史」があり、“明”の時代には「朱子学」も試験科目になりました。つまり「三国志」を勉強すれば出世できたんですね(激違)。 施耐庵あるいは羅貫中の小説『三国志通俗演義』 「三国志」の時代から約1100年後の“明”の時代、歴史書『三国志』を基本にしつつも、荒唐無稽な講談の中から様々なエピソードを取り入れ洗練し、今日知られる『三国志演義』が成立しました。 この『三国志演義』を「編集」したのは施耐庵または羅貫中とされていますが、二人ともどういう人物かはっきりとは分かっていません。施耐庵に至っては「多くの編集者の共同ペンネームじゃないか?」と言う説まであるそうです。 ちなみに『三国志演義』に採用されなかったエピソードの中には、後世の京劇に採用されたものもあります。そのため、小説『三国志演義』と京劇『三国志』では内容が異なる部分もありますが、細かいことは気にしちゃいけません。どちらも「事実をアレンジした作り話」なのですから。
https://w.atwiki.jp/yoshua/pages/52.html
2009/05/23 SFC 三国志4 安価条件 新君主でスタートしクリア 実況時間29時間14分 安価人さん逃亡 koeiのシミュレーションは信長の野望の覇王伝、天翔記、将星録と太閤立志伝Ⅱはやったことあるのですが三国志は一切触れたことがありませんでした。 かなり有名な人物の名前くらいは知ってましたが、三国志がどんな話なのかも知りませんでした。 最初は、まあ信長と同じKOEIだし天翔記みたいに攻めまくってればクリアできるかなって軽く考えていましたが、天翔記と違ってずいぶん難しかったですね。 最初やった感じは覇王伝みたいだなと思いました。 とりあえず、まずはクリア条件が新君主なので新君主を作り、場所は新野という所からスタートすることになりました。 視聴者や安価人の助言を受けつつ、進めていきますがなかなか武将が仲間にならず、ずっと一人で進めていくことになりました。 一人じゃほとんど何もできず、結局周りに攻められまくってあっさり終わってしまいました。 1回目のプレイは終わる直前に仲間になってくれた、馬超の強さが印象的でした。 2回目はさすがに君主一人だけじゃむりだみたいなので、配下武将を5人作って開始。 作成した武将は武に特化してたり政治に特化してたりしてたので、それらを使っていけば半分収めるくらいまではサクサク進んでいきました。 真ん中から←、↓、←↓、の一帯は手に入れたのでそのあとは、敵国と隣接してる3箇所を同時に侵攻してみる。 敵がかなり兵が多く、こちらの全勢力をつぎ込んでもなかなか勝てず、最終的には 毎ターン全城で兵雇って、一箇所に集中して訓練度無い兵で連戦のゴリ押し&一騎打ちで敵減らしでクリアしました。 最後の戦では、呂布が関羽と張飛を連続で一騎打ちで倒してくれてかなり楽できました。 さすが、最強武将です。 名前 コメント すべてのコメントを見る test -- (yoshua) 2009-06-19 12 11 13
https://w.atwiki.jp/xxxxzzzz/pages/703.html
( ^ω^)達が三国志大戦をするようです ( ^ω^)達が三国志大戦をするようです――予告 ( ^ω^)達が三国志大戦をするようです――序 幕間1 因縁の対決―( ^ω^)vs( A`)― 師への挑戦―( ゚∀゚)vs/ , 3― 幕間・荒巻とジョルジュのその後 長編の幕間っぽいもの 宝の意地 因縁の対決、その弐 因縁の対決、その参 幕間2「悪夢の正夢?」 俺はもうDQNじゃない ネタでガチ、ガチでネタ 『驚け!』 “過去への決算” “今度こそ” “実力の差”
https://w.atwiki.jp/mekameka/pages/2456.html
三国志 中原の覇者 メーカー ナムコ 発売日 1988年7月29日 対応機種 FC ナムコ制作の三国志を題材にした歴史シミュレーション コーエーの三國志シリーズよりもシンプルにした作りで、当時のファミコンユーザーの子供にはちょうど良かった 続編 三国志II 覇王の大陸 中原の覇者 -三国将星伝- さ行 ファミコンゲーム 三国志II 覇王の大陸 中原の覇者 -三国将星伝- PR 【中古】ゲーム攻略本 FC 三国志~中原の覇者~ 完全攻略テクニックブック【10P22Apr11】【画】
https://w.atwiki.jp/yamamura2/pages/2061.html
【TOP】【←prev】【FAMILY COMPUTER】【next→】 三国志 中原の覇者 タイトル 三国志 中原の覇者 機種 ファミリーコンピュータ 型番 ジャンル シミュレーション 発売元 ナムコ 発売日 1988-7-29 価格 6900円(税別) 三国志 中原の覇者 関連 FC 三国志 中原の覇者 三国志 II 覇王の大陸 PS NAMCO ANTHOLOGY 1 駿河屋で購入 ファミコン(箱説あり)